2016.9.4『天声人語』・松山善三先生去世

 

【导读】松山善三(1925.4~2016.8),日本编导。对于中国观众,也许有印象的作品是,导《典子》、编《人证》、《望乡》。(格差婚,本想找个合适的词儿,没想在早有百科词条了,就这么原生原样地用。)...



(题图:松山善三和高峰秀子的结婚仪式。译者选登)2016.9.4『天声人語』・松山善三さん逝く

はなはだしい「格差婚」である。雑用に追われる若い助監督松山善三さんの月給は1万2500円。妻の俳優高峰秀子さんの出演料は映画1本で100万円級だった。

这俩人的“格差婚”悬殊也太大了:打杂的年轻助理导演松山善三,每月工资1万2500日元;为妻的演员高峰秀子,拍一部电影的报酬是100万日元的级别。

中学生のころから高峰さんにあこがれ、ブロマイドを持ち歩いた。友人に誘われて脚本家の卵になり、撮影現場で高峰さんと出会う。「高峰さんと付き合わせてください」と監督に頭を下げると一喝された。「身の程(ほど)を弁(わきま)えなさい」(斎藤明美著「家の履歴書 文化人・芸術家篇」)。

在中学生的时候就崇拜高峰小姐,随身都带着她的大照片。受朋友之邀学着编剧,在拍摄现场与高峰小姐相遇。“请允许我和高峰小姐做朋友!”,这么着给导演低头请求,却遭到了大声的训斥:“你也不看看自己是谁!”(据斋藤明美著《家的履历书  文化人·艺术家篇》)。

初デートは銀座の高級料理店。並んだナイフやフォークを見て「使い方がわからない。先に食べてください。真似(まね)しますから」。正直さが高峰さんの心をつかんだ。1955(昭和30)年に結婚する。

第一次约会是在银座的高级料理店。看着眼前摆放着的刀叉说道,“我不会用。请你先吃,我会跟着你学的”。这份诚实打动了高峰小姐的心。1955(昭和30)年俩人成婚。

芸能マスコミからは「3年ともたないのでは」とささやかれたが、屈指のおしどり夫婦となった。松山さんのエッセーを読むと、えぐみも含んだ深い愛情が感じられる。妻を「負けず嫌いで、頑固一徹、明治生(うま)れの爺(じじ)ィに似ている」と評しながら、同時に「大恩人」とあがめていた。

演艺媒体私底下都在议论“这对夫妇不会超过3年吧”,然而他们却是屈指可数的恩爱夫妻。在松山先生的随笔里,可以读到一种带着苦涩的深深的爱情。他对妻子的评价是,“好强、顽固不化,有点像明治出生的老头”,同时也尊敬她是自己的“大恩人”。

監督として弱い立場にある人々の命が輝きを放つ映画をいくつも残した。デビュー作「名もなく貧しく美しく」では耳の聞こえない夫婦の暮らしを描いた。「典子は、今」は薬害により生まれつき両腕を持たない女性の歩みを追って大ヒットした。

作为导演,他留下了很多部弱势的人们释放生命光辉的影片。处女作《无名、贫穷但美丽》(中译《同命鸟》)中描写了一对耳朵失聪的夫妇。《典子》则是记录了由于药物所害生来就没有双手的女性的成长道路,红极一时。

高峰さんが旅立って6年、松山さんが亡くなった。91歳。いまごろは、水入らずの時を楽しんでいるにちがいない。「格差」を補って余りある夫婦愛だった。

   在高峰小姐走后6年,松山先生也去世了。91岁。现在,俩人一定在享受着不受干扰的时光吧!这是一对地位相差得无法填补的夫妇之爱。


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